写真:佐倉にて
今朝、近所の印旛沼を10キロ走る。
走る時は、その日によって、いつもいつもコースを変え、気分を変えて走るようにしている。
(まあ、走れても毎日はムリで、週に2回程度なので)
印旛沼のジョキングコースには、数百メートルほど、「宝くじ植栽事業」で植えられた桜並木がある。
(要所要所に分かれてあるので、まとめれは数キロかな)
来月末に行われる「佐倉朝日健康マラソン」の時期には、そろそろ咲き始めている頃だろうか。
今年は、フルマラソンのエントリーには間に合わなかったので、10キロにエントリーしている。
10キロは、このコースは走らないので、ちょっと残念だ。
今朝、その桜並木に、30前後の青年と、その母親らしき2人連れの姿があった。
10キロ中、4キロ地点ですれ違った。
母親が青年を先導して散歩している感じだった。
5キロで折り返して、また6キロ地点で、その親子の姿があった。
2人とも道端にかがみこみ、何かに手を合わせている。
なんだろう?
このコースは、ここ10年近く、何百回も走っているけれども、手を合わせるようなお地蔵さんも道祖神も何もないが、、、。
と走りながら見てみると、2人が手を合わせているのは「宝くじ植栽事業」の記念石碑。
あれ?????
これは、どういう信仰なんだろう??
もしかしたら、この青年には知能障害があるのかも知れない。
さきほどすれ違った時に、ちょっと、そうした感じを受けた。
う〜ん、この2人は、幸せなのか不幸せなのか?
いい年をした青年が、この時間に母親と散歩しているのは、幸せなのか不幸せなのか?
「宝くじ植栽」の石碑を信仰の対象として、手を合わせている親子は、幸せなのか不幸せなのか?
もしオレの息子が30になって、「宝くじ」の石碑にオレの妻と2人して早朝に手を合わしている姿を想像出来るだろうか?
まあ、ひとそれぞれ。
ひとそれぞれ、いろいろあるわな。
何が幸せなのか、何が幸せの形なのか、それは分からない。
オレ自身は、家族がみな健康であり、みな前を向いて、他人をいたわりながら生きていれば、それで十分だと思っている。
家族同士でケンカすること、言い合うこと、それはそれで幸せだと思っている。
生きていて、小さい中で生きていれば、お互いのエゴやら甘えが衝突してケンカくらいするのは健全だ。
でも、家族の中でも、いたわりの気持ちが消え、憎しみに変わることがある。
そうなったら、その集団は解散した方がいいのかな??
どうだろう??
想像の中だが、オレは、今朝の親子は幸せだなぁ、、と思う。
が、、その親子自身がどう感じているかは分からない。
自分自身の幸不幸、
家族の幸不幸、
ましては他人の幸不幸などは分からない。
オレの古い友人で、この1年ほど右半身不随で、車椅子の生活をしている男がいる。
そんなことになっているのを昨年夏に知ったので、それから2回ほど見舞いに行った。
都内のマンションに母親と2人暮らし。
弟夫婦が近くにんい住んでいるので、頻繁に来てくれるという。
まあ、10代の頃からの友人だが、彼は病弱なところもあり、10代の頃から病院の入退院を繰り返している。
そうした中、また新たに1年ほど前から右半身が不自由になり、いまは実家でリハビリの生活を強いられている。
まあ、そうした状況の友人に、2回目に見舞いに行った時に、
「何で、ちゃらんぽらんで生きているお前が健康なのでに、オレはこんななんだ!」。
「何で、ふざけたお前が家族に恵まれて生活しているのに、オレは独身で車椅子なんだ!」と、マジで言われた。
う〜ん、どうなんだ?
ふざけて、ちゃらんぽらんで生きているかも知れないオレだが、かなりショックだ。
また、それを言う友人にも、本当に同情してしまう。
だた高齢になるお母さん、叔父さん、そして弟さんご夫婦の献身的な支えは暖かいものを感じる。
オレなどは兄弟はいるが、仲がいいとか悪いとか、それ以前の問題で、お互いに全くの無関心だ。
友人の家族を見ていると、友人の病気を囲んで、家族が本当に暖かい気持ちでいる。
大きな病気という不幸を背負っているが、、。
何が幸せなのか不幸せなのか?
オレには分からない。
明日、また信州の山奥へ。
深夜近くまで撮影があるので、いつもなら泊まるところだが、明後日に午前中から都内で撮影があるので、、、どうしよう?
とりあえず、車に寝袋を詰め込んで、、、。
そんな明日、明後日のことを心配しているオレは、幸せかどうかは全く自覚はないが、きっと不幸ではないのだろう。